息もできない [映画]

韓国映画、初めて見た。
想像していたとおりの世界だった。

主人公のサンフンはチンピラなんで、初っぱなから暴力の応酬。暴力でしか表現できない男。
貧困層の家庭に生まれ、父親はろくでなし。
毎日、女房をサンドバッグにして、あげくに娘(サンフンの妹)を殺してしまう。

そんな環境で育った子供がまともになるわけもなく、サンフンは腕力を武器に借金の取り立てや、学生運動・違法屋台の強制排除を行う。

サンフンが出会った少女ヨニも同じような環境で育つ。
精神障害をもち、包丁を振り回す父親と、非行に走る弟。
くそったれな家族、くそったれな人生。
だが、ふたりともそこから逃げ出す事はできない。

邦題は「息もできない」だが、原題は「糞バエ」だそうだ。
なるほど、原題を聞いて合点がいった。
まさしく、「糞」な人間たち、「糞」な世の中。
この怒りはどこにやればいい?

妹を殺し、母を痛めつけたあげく死に追いやった父親を、サンフンは許すことができない(当然だ)。
自分がぶち殺してやると、父親のねぐらに乗り込んだら、先に父親は自殺しようとしていた。
それを目の当たりにしたサンフンは、父親を担いで病院に駆け込む。
医師に「俺の血を輸血しろ!」と叫ぶ。
つい先ほどまで、自分が殺そうとしていた父親を、必死に助けようとする。
血の呪縛は、逃れる事ができない。

その頃ヨニも、父親が暴れだし、自分を殺そうとしたので、一時外へ避難する。そこへチンピラから電話がかかってくる。
ふたりはお互いの家族の事は一言も話したことはない。
ただ、その日の夜、ふたりは同じ理由ーー殺したいほど憎んでいる肉親と、断ち切れない血の絆への怒り、人生への怒り、生きることへの怒りに慟哭するんだ。

ふたりが泣いた意味に気づかない人は、幸せなご家庭で育ったんですね。
いいことです。

そして、サンフンは、ヨニと人生を生きようとするが、因果応報か必然か、悲惨な末路を迎える。
冒頭の「他人を殴るヤツは自分が殴られるとは思っていない」というセリフが伏線となっている。

サンフンが消えた後、ヨニの生活は落ち着いたように見えるが、弟がサンフンと同じ暴力で違法屋台を排除している仕事をしているのを見て、かつて自分の母親を殺したごろつきが、サンフンであったことに気づき、エンドとなる。

なんという絶望。
この映画には、希望どころか、綺麗なものはひとつもない。
束の間の幸福は、文字通り泡と消える。

ひたすら寄りで撮るバイオレンス。
殴れ殴れ殴れ。
夢や希望なんて鼻で笑ってやる。

糞まみれな、人生の極致を表現した、見事な作品であった。




ところで、韓国語はまったく知らないが、サンフンの口癖の「しばーらまぁ」って、字幕では「クソ野郎」と訳されていたが、もしかして中国語の「ターマーダ」や「マーラカピー」と同じ意味ではあるまいか。
だとしたら、「クソ野郎」なんて生易しいもんじゃない。

相当する訳語がない日本は、つくづくヌルイ国である。


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ミシマダブル『わが友ヒットラー』/シアターコクーン [演劇]

蜷川さんは『わが友ヒットラー』を、「ホモソーシャルな世界の青春の物語」として描きたかったのだそうだ。45〜48歳のおっちゃんたちを。

だから、26歳の生田をヒットラーに当てたのだろう。
だから、レームが青臭く映るように、44歳の東山に高校生のようなしゃべり方を出させているのだろう。

ならば、なにも風貌をヒットラーに似せる必要はないではないか。
実際は40代半ばだったヒットラーとレームの史実を無視するなら、ビジュアルもとことん無視してしまえば良かったのだ。
それこそあり得ない真田信繁や伊達政宗がでてくる「戦国BASARA」レベルまで変えてしまったほうが、いっそしっくりする。

なぜなら、ヒットラーという個性はあまりにも強大であり、チョビ髭・七三があるかぎり、史実のイメージから逃れられないからだ。
ヒットラーのイメージと生田くんの子供っぽさが、頭の中で喧嘩してしまうんだ。

蜷川さん解釈のヒットラーとレームが、銀英伝のラインハルトとジークフリートだと思えば、最初から最後まで腑に落ちるのだが。

狂気という至極単純な手に逃げたことも、ヒットラーを「二十世紀の怪物」ではなく「青春の独裁者」と位置づけたのなら、まだ許容できる。


生田くんは、東山先輩と相対しているときは、東山さんの棒読みがなり演説にひきずられて自分も一本調子になり、平さんと2人で舞台にいるときは、ぐっと上手くなるんである。
どうも、共演者に引きずられるようだ。

しかしやっぱり、今回はミスキャスティングだと思う。
だいたい、蜷川さんは生田くんのことをよく知らないのではないか? 「ぼくらの時代」で、とんちんかんな思い込みを生田くんに披露していた。
そんで、基本適当な生田くんは、例の「そう、かもしれないですねー」で流していた。
蜷川さんの生田くんへの誤解が、作品を釈然としないものにしてしまた感がある。

「わが友ヒットラー」は、生田の若さを無駄遣いされてしまった、という印象ばかりが強い。

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白木葉子とエメラルダス

『あしたのジョー』がらみで過去の旅をした。
30年以上、前の旅。

アタシが白木葉子を嫌いだった理由は、ひとえに、ホセ・メンドゥーサ戦の直前、この土壇場で彼女が矢吹丈に告白したことである。

「好きなのよ、矢吹くん。あなたが・・・!」

リアル中坊だったアタシは、「えーこの期に及んでこの女、何ぬかすねん!」と思った。
そんときのアタシは、白木葉子の行動が、妊娠を武器に結婚を迫る女のそれと同じに映ってしまったのだ。

それから、アタシも世間の荒波をかいくぐり、白木葉子のことなんかすっかり忘れていたのだが、映画の感想を書くうえで、あらためて白木葉子のキャラ設定を確認するべく、他人様のブログを逍遥してみた。
すると、白木葉子ってけっこう男性に人気あるではないか!
しかも、アタシが嫌いになったあの告白シーンでハマった人が多いらしい。
いつも丈に対して冷たく当たっていた葉子の、涙を流しながらなりふりかまわなかった姿にぐっときたのそうだ。

な、なるほど!
それはツンデレではないか!

今までツンツンしていた女が、「あなたが好きなの行かないで」と取り乱しながら泣いてすがる。
しかし、そんな女を残して戦場へと旅だってゆく男。

うーん、究極の男のロマンだねぇ。

今ごろ気づいたアタシはこのていたらく。
でも、気づいたからって、後悔はしてないよ。
だって、アタシがその頃あこがれていた女は、エメラルダスだもの。

たしかハーロックだったか、「男は負けるとわかっていても、戦わねばならぬ時もある」
というセリフがあった。
それに関連した来生たかおの挿入歌で(もしかしたら、アルバムオリジナルかも)、
「どんなに惨めな姿でも、おまえなら見つめてくれるだろう。目を逸らさずに」というのがあって、「なるほど、戦いにゆく男を止めてはいけないんだ。最後まで見届けるのが、女の役目」と中坊の幼い頭では「かっけー」と思っていた。

だから、ホセとの決戦直前に虎の子出した葉子は、きたねー手を使う女と思ったのだ。

一方、エメラルダス(エメラーダ)は、トチローという愛した男がいて、娘までもうけていたのだが、トチローが死んだとき、娘を旦那の親友(ハーロックね)に預けて、自分は旅立ってしまうんだ。

すげー、かっけー。

でも、今、ちょっとは経験をした自分が白木葉子のあのときの行動を考えるに、彼女は丈との間に何もなかったがゆえに、あの告白をしてしまったのだろう思い至る。
エメラルダスは好きな男の子も生めたけど、葉子は何もないうえに、相手は死んでしまうかもしれなかったのだから。

もし、今のアタシが白木葉子の立場に立たされたら、どうするだろう。
思いは胸に秘めて、矢吹丈の決戦を見守ることが美学だ、と、アタシの男脳は言う。
美学も何もない、今、この時、自分の欲求に従え、あれもこれも欲しいんだ、と、アタシの女脳は言う。

どっちだろう。

ま、どっちにしても、そんなシチュエーションは未来永劫ありえないので、妄想するだけ時間の無駄ですね。

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あしたのジョー [映画]

21世紀なので、設定をいろいろ変えるのは構わない。
今の世の中いろんな圧力が多く、基本的にみんないい人になりたがっているから、まだ戦後が残っていた1960年代の湿った暗さが画面から出ないのは、百歩譲って看過しよう。

しかし。

白木葉子のキャラ付けは蛇足だ!

いらんいらん。あの時代のあらゆる女性がそうされていたように、白木葉子は床の間のお飾りでいーんだ。
ジョーの世界に、女は出る幕じゃないんである。

ヤマトの森雪も暴力女になってたし、『クローズZERO』にも余計な女の子キャラがいたなぁ。
女性観客動員を狙うという意図なら、的を大きく外れているよ。女だってフツーに格闘楽しむんだから、男の戦いの世界に女は目障りなんである。

白木葉子の生い立ち追加するくらいなら、もっと矢吹丈の悪逆の限りを尽くす暴れん坊ぶりを描いてほしかった。

それに、山下の美貌の前では、どんな女優も色褪せる。

って、いま気づいたんだが、香里奈と山下って、『カバチタレ!』で、恋人同士役だったではないか。高校生の。
あの頃の香里奈はハンパない美少女で、山下と遜色ないほどであったのに、年を経て普通の美人になってしまった、香里奈。
あと、彼女は庶民クサイ。

もとい。
『ハート・ロッカー』が痺れ死ぬほどカッコよかったのは、100パーセント男の世界を描き切っていたからである。さすが、女性監督が撮っただけある。

『あしたのジョー』を見ようと思ったきっかけは、メイキングを見たことである。
力石との決戦シーンで、伊勢谷のパンチを受けてしまった山下が、撮影再開後に気合いを入れるため、自分の顔をガシガシ殴っていた。

ああああ、あの綺麗な顔を自分で殴るなんて〜。
山下も男だったのね。
切ないまでの、萌。
ってなもんだ。

あと、同シーンの撮影で、「うぉぉぉぉー」雄叫んでいる山下。
オスだぜ、山下。

しかし、本編ではそんな山下ジョーは表現されておらず、計算された格闘シーンはそれなりに見られるものの、やはり作り物の感は否めない。
ガチの拳闘で、あのメイクは控え目すぎるだろう? アニメでは二人ともボコボコに腫上がってなかったっけ?
せっかく、あの綺麗な顔なのだから、ボコボコ血まみれが見たかった。

力石の体重測定シーンとか(マジびびった。ナチ収容所のユダヤ人レベル→つまり餓死寸前)、ノックアウトされたジョーなめ力石の構図とか、原作やアニメファンには「おおっ」と思うシーンはいくつかあったものの、ジョーの世界は刹那の美学だと思っているアタシとしては、もともと白木葉子というウザかったキャラが、さらに肉付けされて出てきちゃったのは、ひっじょーに残念であった。


あと、主題歌も残念。
なんで今更宇多田ヒカル?
尾藤イサオやジョー山中、それに替われる男性歌手が良かった。




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ミシマダブル『サド侯爵夫人』/シアターコクーン [演劇]

そもそもなんで、ジャニタレ2人が出るのに会話劇なんか選んだのだろう?
脳みそツルツルなジャニオタへの嫌がらせか?

だとしたら、ジャニオタ見くびってるぞ。
ヤツら、上演中爆睡していても、カーテンコールの拍手は躍起になって、延々と果てしなくし続けるんだから。
内容わかってないのに、スタオベまでやるんだから。
別の舞台だが、不条理劇でipod聞いてたヤツもいたなぁ。
内容なんかどうでもよくて、ただ目当てのタレントが見たいだけなんだ。

もとい。

イロイロ大人の事情があってジャニタレ使わざるを得なく、でもそれじゃもたないからベテランの俳優陣で固めたとしても、東山の長セリフの稚拙さは、耳を塞ぎたくなるほど酷かった。
聴いていて客が不快に思うレベルの酷さ。

ブレスの後の音が皆同じで、緩がなく、ひたすら急・急・急。
単語やセリフの意味を理解しないでまくしたてるので、ただの演説?
だいたい、東山がルネという女をどう造型したのか、まったく伝わらなかった。

生田は、それでも健闘してる。
未熟なりにセリフに強弱をつけ、女性の所作(狐の手!)も忠実に守ろうとしている。
平さんや木場さんの技術を、必死に取り入れようとしている成果だろう。
なんつーか、初々しくて好感が持てる。

そういえば彼は、舞台毎に何かの技術を身につけている。
年齢を考えれば、将来有望という言葉がぴったりだ。
何よりあの美貌は、天からの贈り物。
ヨーロッパの女優かと思うほどの貴婦人ぶりだった。
フランス人形にして部屋に飾りたい。

もしかしたら、『わが友ヒットラー』のほうが、鑑賞に堪えるかもしれない。


『サド侯爵夫人』に戻る。
さて、なぜルネが、夫に尽くし続けたにも拘わらず、晩年になって夫が自分のもとに戻ってきたとき、離婚を決意したのか?

現代の女性で、そのことに疑問を感じる人がいるのだろうか?
ダンナの定年と同時に離婚届け突きつけるのが珍しくない今の世の中で(三島由紀夫の時代はなかったね)。

一番弱っているときに捨ててやる。
その一瞬の時のために、数十年の奴隷生活に耐えたのだ。

また或いは、晩年自分のところに戻ってきた夫は、長年自分が愛していた男ではなくなっていた。
私の愛した男は、若く美しくどこまでも放埒であった。たとえ世の怨嗟を一身にまとった犯罪者でも。
それがなんでこんなに丸くなっちゃの? つまんなーい。
と、ルネが思ったのかもしれない。

だって、よくある解説のように、ルネが「貞節の固まり」で、ひたすら夫に尽くし続けることが彼女の行動原理だったのなら、『美徳の不幸』書かれたくらいで離別に至る心理の説明がつかないもの。

あ、ルネって、いつか夫が自分を理解してくれると思ってたのかしら?
うーん。
うーん。
それじゃ、「貞女」ってよりも、「幼女」?
パワハラモラハラ夫から離れられない人間の心理?
つまんネー。



ミシマはこの戯曲に関する自作解題で、「登場人物は全員女だけど、内容は男性的理論展開」、反対に『わが友ヒットラー』は「登場人物は全員男だが、内容は女性的情感で展開させる」というような事を書いていた。

ならば、『サド侯爵夫人』は女優で演じられなければならないのに、全員男優にする意味がわからない。
男性が理論バトル繰り広げても、あたりまえだが新鮮さはない。

パンフレットの平さんの文によれば、「女性がルネをやったらお涙頂戴メロドラマになってしまう」とあった。

果たしてそうだろうか?
女性の中に男性的な部分、男性の中に女性的な部分を併せ持つことは、夙に知られている。
女優がやったって、メロドラマにはならない。

21世紀ですぜ?
桐野夏生の『OUT』のような女は、至るところにいるんだよ?
そんなことは、シェイクスピアはすでに知っていたのだが。


あと。
演出。

コクーンの扉開け。
『カリギュラ』のような鏡舞台セット。
ラストにかぶせるアジ演説。(未確認だけど、もしや三島事件時の演説?)


今までの蜷川さんの舞台でさんざんお目にかかってきた。
わざと?
偉大なるマンネリを目指す?


まあ、どうでも、今回の最大のネックは、ルネ役の大根さに尽きる。



☆☆☆☆☆☆

I列センター関係者席に松井今朝子さんがいらしたので(よく見かけるなぁ)、ブログを楽しみにしていた、早速アップしてくださった。
「観念のキャラ立ち」なのか。
なるほど、なるほど。たいへん、勉強になった。
私は本質的に理解していなかったのだな。

木場さんの女形への驚きと感嘆、効果音の過多等の感想に同意。

でも、ホントにヒガシ先輩はOKなの?
大人の事情ナシで。






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