ミシマダブル『わが友ヒットラー』/シアターコクーン [演劇]

蜷川さんは『わが友ヒットラー』を、「ホモソーシャルな世界の青春の物語」として描きたかったのだそうだ。45〜48歳のおっちゃんたちを。

だから、26歳の生田をヒットラーに当てたのだろう。
だから、レームが青臭く映るように、44歳の東山に高校生のようなしゃべり方を出させているのだろう。

ならば、なにも風貌をヒットラーに似せる必要はないではないか。
実際は40代半ばだったヒットラーとレームの史実を無視するなら、ビジュアルもとことん無視してしまえば良かったのだ。
それこそあり得ない真田信繁や伊達政宗がでてくる「戦国BASARA」レベルまで変えてしまったほうが、いっそしっくりする。

なぜなら、ヒットラーという個性はあまりにも強大であり、チョビ髭・七三があるかぎり、史実のイメージから逃れられないからだ。
ヒットラーのイメージと生田くんの子供っぽさが、頭の中で喧嘩してしまうんだ。

蜷川さん解釈のヒットラーとレームが、銀英伝のラインハルトとジークフリートだと思えば、最初から最後まで腑に落ちるのだが。

狂気という至極単純な手に逃げたことも、ヒットラーを「二十世紀の怪物」ではなく「青春の独裁者」と位置づけたのなら、まだ許容できる。


生田くんは、東山先輩と相対しているときは、東山さんの棒読みがなり演説にひきずられて自分も一本調子になり、平さんと2人で舞台にいるときは、ぐっと上手くなるんである。
どうも、共演者に引きずられるようだ。

しかしやっぱり、今回はミスキャスティングだと思う。
だいたい、蜷川さんは生田くんのことをよく知らないのではないか? 「ぼくらの時代」で、とんちんかんな思い込みを生田くんに披露していた。
そんで、基本適当な生田くんは、例の「そう、かもしれないですねー」で流していた。
蜷川さんの生田くんへの誤解が、作品を釈然としないものにしてしまた感がある。

「わが友ヒットラー」は、生田の若さを無駄遣いされてしまった、という印象ばかりが強い。

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