ミシマダブル『サド侯爵夫人』/シアターコクーン [演劇]

そもそもなんで、ジャニタレ2人が出るのに会話劇なんか選んだのだろう?
脳みそツルツルなジャニオタへの嫌がらせか?

だとしたら、ジャニオタ見くびってるぞ。
ヤツら、上演中爆睡していても、カーテンコールの拍手は躍起になって、延々と果てしなくし続けるんだから。
内容わかってないのに、スタオベまでやるんだから。
別の舞台だが、不条理劇でipod聞いてたヤツもいたなぁ。
内容なんかどうでもよくて、ただ目当てのタレントが見たいだけなんだ。

もとい。

イロイロ大人の事情があってジャニタレ使わざるを得なく、でもそれじゃもたないからベテランの俳優陣で固めたとしても、東山の長セリフの稚拙さは、耳を塞ぎたくなるほど酷かった。
聴いていて客が不快に思うレベルの酷さ。

ブレスの後の音が皆同じで、緩がなく、ひたすら急・急・急。
単語やセリフの意味を理解しないでまくしたてるので、ただの演説?
だいたい、東山がルネという女をどう造型したのか、まったく伝わらなかった。

生田は、それでも健闘してる。
未熟なりにセリフに強弱をつけ、女性の所作(狐の手!)も忠実に守ろうとしている。
平さんや木場さんの技術を、必死に取り入れようとしている成果だろう。
なんつーか、初々しくて好感が持てる。

そういえば彼は、舞台毎に何かの技術を身につけている。
年齢を考えれば、将来有望という言葉がぴったりだ。
何よりあの美貌は、天からの贈り物。
ヨーロッパの女優かと思うほどの貴婦人ぶりだった。
フランス人形にして部屋に飾りたい。

もしかしたら、『わが友ヒットラー』のほうが、鑑賞に堪えるかもしれない。


『サド侯爵夫人』に戻る。
さて、なぜルネが、夫に尽くし続けたにも拘わらず、晩年になって夫が自分のもとに戻ってきたとき、離婚を決意したのか?

現代の女性で、そのことに疑問を感じる人がいるのだろうか?
ダンナの定年と同時に離婚届け突きつけるのが珍しくない今の世の中で(三島由紀夫の時代はなかったね)。

一番弱っているときに捨ててやる。
その一瞬の時のために、数十年の奴隷生活に耐えたのだ。

また或いは、晩年自分のところに戻ってきた夫は、長年自分が愛していた男ではなくなっていた。
私の愛した男は、若く美しくどこまでも放埒であった。たとえ世の怨嗟を一身にまとった犯罪者でも。
それがなんでこんなに丸くなっちゃの? つまんなーい。
と、ルネが思ったのかもしれない。

だって、よくある解説のように、ルネが「貞節の固まり」で、ひたすら夫に尽くし続けることが彼女の行動原理だったのなら、『美徳の不幸』書かれたくらいで離別に至る心理の説明がつかないもの。

あ、ルネって、いつか夫が自分を理解してくれると思ってたのかしら?
うーん。
うーん。
それじゃ、「貞女」ってよりも、「幼女」?
パワハラモラハラ夫から離れられない人間の心理?
つまんネー。



ミシマはこの戯曲に関する自作解題で、「登場人物は全員女だけど、内容は男性的理論展開」、反対に『わが友ヒットラー』は「登場人物は全員男だが、内容は女性的情感で展開させる」というような事を書いていた。

ならば、『サド侯爵夫人』は女優で演じられなければならないのに、全員男優にする意味がわからない。
男性が理論バトル繰り広げても、あたりまえだが新鮮さはない。

パンフレットの平さんの文によれば、「女性がルネをやったらお涙頂戴メロドラマになってしまう」とあった。

果たしてそうだろうか?
女性の中に男性的な部分、男性の中に女性的な部分を併せ持つことは、夙に知られている。
女優がやったって、メロドラマにはならない。

21世紀ですぜ?
桐野夏生の『OUT』のような女は、至るところにいるんだよ?
そんなことは、シェイクスピアはすでに知っていたのだが。


あと。
演出。

コクーンの扉開け。
『カリギュラ』のような鏡舞台セット。
ラストにかぶせるアジ演説。(未確認だけど、もしや三島事件時の演説?)


今までの蜷川さんの舞台でさんざんお目にかかってきた。
わざと?
偉大なるマンネリを目指す?


まあ、どうでも、今回の最大のネックは、ルネ役の大根さに尽きる。



☆☆☆☆☆☆

I列センター関係者席に松井今朝子さんがいらしたので(よく見かけるなぁ)、ブログを楽しみにしていた、早速アップしてくださった。
「観念のキャラ立ち」なのか。
なるほど、なるほど。たいへん、勉強になった。
私は本質的に理解していなかったのだな。

木場さんの女形への驚きと感嘆、効果音の過多等の感想に同意。

でも、ホントにヒガシ先輩はOKなの?
大人の事情ナシで。






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