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8年後

このブログを書いていたとき、前の仕事に疲れ果て、半分ニート状態で映画や芝居を見まくっていたのだった。

そして8年経った今、完全なニートとなった。

コロナ禍中から3年、退職から1年。文字通り外に出ない状態。

8年の間、世の中には多少の変化はあった。
100まで生きて欲しかった蜷川さんが亡くなった一方、
吉田鋼太郎さんがテレビでブレイクし、
窪塚くんは才能に相応しく順調にお仕事しているし、
舞台中に骨折していた成河くんはもはやベテラン俳優として活躍している。


私はといえば、還暦を目前にして、あれほど旺盛だった好奇心が萎み始め、30年間離れていた漫画を読み漁り、振興のvtuberの動画配信で日々をやりすごしている。

つまり私自身は8年前とあまり変わらず、8年後もあまり変わらないと予測できる。

って、こうして更新すれば広告は表示されなくなるのだろか、というお試しの8年振りの書き込みである。
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偽りなき者 [映画]

紆余曲折を経て、また以前の生活に戻る事ができたので、DVDの乱読ならぬ乱鑑を始めた。

で、『偽りなき者』。

結構レビューがUPされていて、一通り拝読してから書いてみる。

ラストを主人公の幻覚だと言っている人がいて、びっくらこいた。

まさに、こういう現象こそ、この映画で描きたかったことではないだろうか。

つまり、人は主観こそが「現実」なのであって、真実なんかどうでもいいんである。

クララが嫉妬からついた嘘を信じた人間達にとって、主人公が変態であるというのは、まぎれもない現実なのである。
それが物的に証明されないかぎり、いや、たとえ物的に真実が証明されたとしても、真実を理解しようとする意識がないかぎり、主人公の冤罪は晴れない。

これは、少なからずも私たちの日常に起こっている。
たとえば、あなたが結構な才能を持っていたとしよう。
しかし、その才能は目に見えるような、たとえば、東大卒とか、一流企業の社員とか、わかりやすいものでないかぎり、想像力のない人間は、あなたを評価することはできないだろう。

つまり、Aさんの意識の中の現実と、あなたの中の現実、Bさんの意識の中の現実は、まったく異なるものなのである。

クララは、「自分は嘘をついていました」と告白したが、周囲の大人はクララの言葉をもう信用しない。
「性的虐待を受けた」という嘘だけを信じている。
この状況でクララが大人になれば、もしかしたら、クララの記憶も塗り替えられて「私は子供の頃に性的虐待を受けた」に変化し、それが「真実」となってしまうかもしれない。

ひたすら淡々と描かれている映画だが、見る人によって様々な思考を与える映画だ。

そして、疲れる。

「グレーは嫌だ」というレビューもあった。
アタシも嫌だ。
白黒つけてくれた方がありがたい。
グレーなのは現実だけで十分だ。

ところで、以前誰かが言っていた。
「男は教育されて男になるが、女は生まれながらに女なのだ」と。

クララが座っている場面を背中から撮ったシーンがあるが、幼稚園児にしてすでに背中のラインが「女」なのである。
もしかしら監督は、オーディションで彼女のあの「女」の部分を見て、キャスティングしたのではないかと穿ってしまった。

いろいろ細かな伏線が多くて、返す返すも、見ていて疲れる映画であった。

タグ:偽りなき者

グッドワイフ/The Good Wife [テレビドラマ]

グッドワイフの第6シーズンを見終わった。
NHKではもうグッドワイフの放送は絶望だということを知って、非常手段に出た。
こういう時、英語と中国語が出来ると便利。
世界は中国語と英語で征服できる。
日本語しかできない日本人はくそくらえ。
ERで統合失調症の回をまるまるカットしたNHKなんかクソ食らえ。

カリンダが好きだった。
彼女の生き方は憧れだった。

だから、彼女がビショップの使い走りみたいになっていたのは解せなかったのだけど、カリンダは裏切らなかった。
彼女は何者にも縛られない存在だったのだ。

ジュリアナ・マルグリースとアーチー・パンジャビが不仲だったという説を知って、がっかりした。
ラストの二人のシーン。

合成だっていう人がいた。
私もそう思う。
あのシーンは合成だ。

残念。ひたすら、残念。
カリンダが心から愛していたのは、アリシアだったのでは? と思うにつけ、現実の女優同士の確執は非常に残念だった。

でも、カリンダというキャラクターは私の中では実在していて、彼女の圧倒的な孤独も理解できるし、彼女という現象に出会えたことを感謝している。

そして、カリンダというキャラを創り上げたアーチー・パンジャビにも。

カリンダ、Love Always.



『明日、ママがいない』/テレビドラマ [テレビドラマ]

「明日、ママがいない」のテーマは、親に期待しない事、親を過大評価しないことだ。

全ての親が人格者なわけではない。むしろ、ほとんどの親は未熟な人間で、子供を教育する資格なんかない。そんな親に期待するな。毒親なんか、子供の側から捨ててしまえ。その方が、どんだけ人生充実するか。

だいたい人格者の「母親」なんて、ごく少数で、大部分の母親は子供に何言ってもいいと思ってる。子供がどれだけ傷つくか想像できない母親ばっかじゃん。「子供のトラウマがどれだけ深く刻まれるか」わからない母親ばっかだ!

半径5km以内が全ての世界で暮らしている教養のない女が母親になると、まず、夫(つまり子供にとって父親)をバカにする。夫の悪口を子供に言う。自分が世の中で一番苦労していて、不幸で、可哀想だと子供に吹き込む。自分が世の中で一番正しくて、センスがいいと思ってる。そんな母親は毒親ですよ。

子供はペットではないし、おもちゃではない。自分の思い通りにはならない。
それを学んだうえで、母親になってほしい。

「子供のために」とか「あんたのために」とか子供に言った時点でその母親は「毒親」認定されていい。血がつながった母親だから、言葉の暴力が許されるわけではない。かつてトラウマを負い、今もトラウマと戦いながら生きている人間として、私は「明日、ママがいない」を永遠に支持する。

「明日、ママがいない」を執拗に攻撃するマスコミ人って、何が目的なんだか。

「明日、ママがいない」に傷つく人間がいる一方で、救われる人間もいることを理解してほしい。
もし、一方の立場の正義を振りかざすのなら、それはテロリズムと同じである。


親の人生よりも、自分の人生を生きろ。
親に感謝とか、家族だから見捨ててはいけないとか、理想に過ぎない。子供は親を選べないのだ。


むしろ、子供を育てる資格のない人間が親になること自体が罪なのだ。

自分が壊れる前に、親を棄てろ。

親を棄てろ。

あなたには何の罪もない。

親を棄てろ。
毒親の呪縛を断ち切れ!

「親を大切に」とか「家族の絆」とか、
そんな戯言をぬかしてる偽善者どもなんか気にするな。
やつらは「パンがなければブリオーシュを食べればいい」というくらいの知性と想像力しかない。

親に殺される前に、逃げろ。
親を棄てろ。
親の呪縛から逃げろ。

自分の人生を生きろ。




●『毒になる親  一生苦しむ子供』スーザン・フォーワード著 (講談社プラスアルファ文庫)

●子供の毒になる親の七つの特徴
http://matome.naver.jp/odai/2136123866491286401





象/新国立劇場・小劇場 [演劇]

かなり前だが。

再演モノということで、『象』も観たのであった。
もし、稲垣吾郎でなかったら、違うだろうか? と確かめたくて。

あまり、違わなかった。

違うのは、チケットが余りまくって、空席が目立ったこと。
哀しいです。

でも、脚本もつまんないし、演出もたいくつ(特に前半1時間は拷問)だから、
しかたないかー。

木村了くんは、きれいでした。
以前、弱法師やったとき、うまいなとは思っていたのさ。
今後、期待。



春琴/世田谷パブリックシアター [演劇]

初演でヤラレちゃってから、毎年欠かさず観ていた。
震災で間が空いちゃったのね。

舞台自体の感想は、今まで書き尽くしてしまったので、
今回は、最後記念の記録です。



再演毎に、サイモンさんはいろいろいじくっていた。
日本のトイレはボタンがいっぱいあって、どこを押したらいいかわからない。
ぼくはただ、トイレを流したいだけなんだー!!
と叫んでいたのは、何年版の『春琴』だったっけ?

私にとっては2009年版の『春琴』が最高で、翌年の(つまり前回の)解釈はあまり好きではなかったので、
もう観るのはやめようと思っていたのだ。

でも、最後っつーから、やっぱ観なきゃ。
と思って、昨日行って参りました。

チケット取り忘れていた。
あまりの人気にびっくり。
再演の時は、舞台始まってからでも余裕で買えたのに、
今年は当日券すら電話つながんねー。

どうやらクチコミで広まったみたいですね。
良い舞台が正しく評価されて、商業的に成功するのは、何よりも喜ばしいことです。
ちょっと、日本人を見直しました(上から目線)。

で、10時の当日券発売開始と共に100回以上リダイヤルし続け、
30分後に繋がったときは、「予定枚数終了しました」とチケットセンターのおねいさん。

でも、どうしても諦めきれず、窓口発売はあるか、午後1時頃に再度電話をしたら、
「3階の立ち見なら予約できます」とおっしゃるではないか!
なんで? さっき完売ゆーたやん。

まあ、そんなこたーどーでもええ。
ぴあだって、忘れた頃に良席出したりするんである。

初めてです。世田谷パブリックシアターの天井席。
3階の立ち見って、壁と手すりに挟まれて観るの。
アタシは小柄だから問題なかったが、
たぶん巨漢の方は入れません。
本来、人が観る所と想定されてませんから。

でも、思いのほか見やすかったが、3500円はちょっと。。。。うーん、『春琴』のラストだから許そう。

深津絵里ちゃんも今年不惑なんだねー。
5年前と全然変わらない。
美しい人です。

変わったのは成河くん。
実はアタシが成河くんのファンになったのは、初演時の背中の筋肉に落ちたからであった。
いやもちろん、「片腕パック」のインパクトが強かったのもあったが。

あのときの若枝のようなしなやかな体は失われており、
有り体に言えば、おっさんになったなーと。
(青年期の佐助って、以前は髭なかったよね?)

演出等も前回版とほぼ同じであった。
ナレーターの女性が付き合っている男性が息子ぐらいの年という設定も
前回と同じ。
(初演時の設定は不倫関係で、ナレーターの女性は春琴を朗読しながら、
自分自身を俯瞰できるようになるというサイドストーリーがあった。)

初回、再演時の「舞台の神が降臨」したような、客席と舞台上が一体化する瞬間はなかったけれども、まあ、ラスト公演を観られてよかった。


カーテンコールが5回も。(初演時はカテコ1回で客が帰って、呆然とした思ひ出)。
しつこ過ぎ。

大千秋楽以外は、3回でいいと思います。
役者さんだって、早くシャワー浴びてビール飲みてぇよ。





ヴィーナス・イン・ファー/シアターコクーン [演劇]

独裁者は民衆が創りだすもの、というのはよく言われることだ。
第一次大戦で疲弊したドイツ国民は、ひとりの圧倒的な才能をもつ男に権力をゆだねた。

ヴァンダを創りあげたのは、他ならぬクジエムスキー本人である。
「Heil, Hitler!」
「Hail,Aphrodite!」


だけど脚本を読むと、やはり最初から最後まで、女性が圧倒しているんだよね。
冒頭とラストに引用される旧約聖書外典の『ユディト記』の「ユディト」は、
占領された街を救うため、自ら身を投げ出して敵軍の将軍をたらし込み、その首をあげて
街を救った女傑。

ヴァンダはなぜか、トーマスの書いた脚本の完全版を持っていて、
なぜか、1870年の衣装も持っていて、
最後には本物の、セーブルの毛皮まで出すんである(役者志望の、売春までやっていた女が買えるような代物ではない)。

「君は何者なんだ?」

「どこから来たんだ?」

ヴァンダ(Wanda)はヴァンダ(Vanda)そのものであり、またアフロディテの化身でもある。
トーマスが創りだした女が、そのまま目の前に現れた。
ならば、トーマスが服従してしまうのは、必然のことであろう。

男がどんなに女を支配しようとして、蔑視しても、
最後の最後では、女の支配を受けてしまうんだ。

やっぱ、結論は「女には勝てねー、アフロディーテばんざーい(Hail Aphrodite!)」になってしまうんですけど、他に解釈ありますか?
脚本家のアイビスさんって、すごく女性の心理を理解していて、
たとえば「スローなセックスはステキだよ」というような、いちいち納得させられる台詞がちりばめられている。
でもこれは、アメリカ文化界の一線で活躍する芸術家だから、書けるものであろう。


近代以前の欧米の文学や、それから派生する表現媒体(映画やオペラや演劇)を見る度に思うのだが、
父系社会の概念から描かれたものが多く、それにキリスト教的道徳観が入るから、
私たち東洋人には、予備知識がないとわかりづらいことがある。

ルシフェル等のキリスト教における悪魔は、他の宗教の神であるのは有名だ。
つまり、火力(暴力)を持ち得た「男」という支配者層が、他者を支配するために、
いろいろこじつけて作り上げた概念だ。
そして、人間は無意識のうちに、それを受け入れ、支配されてしまう。
男(支配者)と女(被支配者)。
キリスト教(支配者)と他宗教(被支配者/キリスト教徒が支配を始めたアフリカ、アメリカ、アジア、中東における植民地等等)。

支配されないためには、「自分の頭で考えること」が必要だ。
「あたしはあたしなの!」確固たる自我を持ったヴァンダは、永遠に支配されることはないだろう。


父系社会の象徴である全能の神ゼウス(北欧神話だとオーディン)は、ちゃぶだい返すお父さん。
でも、日本でお父さんの権力が強かったのは、開国して欧米の文化の猿真似を始めた
明治から、戦争に負けてすっかり自信喪失になった60年くらいの間のことで、
それ以外の千数百年間、基本、日本は母系社会なんです。

日本神道の大神は、アマテラス。女神なんだよん。
アマテラス様、バンザーイ!



トーマス役を、ジャニタレが演じたのは、なんというか象徴的で、
たぶん、演出のロスさんは、ジャニーズの特殊性を知らないで演出したから、
稲垣吾郎の演ずるトーマスに面食らったんじゃないかな。
女性心理を熟知しているジャニタレは、まさにトーマス役に打ってつけなんである。
(アイドルはファンを支配しているように見えるが、ファンがアイドルを創りだしてもいるので、
アイドルはファンに支配されてもいる。それを理解し受け入れられるアイドルだけが、生き残ることができる)。

そして、なんといっても、中越典子さんが良かった。
頭の軽そうな女の子から、徐々にトーマスを支配する「女」あるいは「女神」に変貌していく
過程は、見ていてゾクゾクした。
最初は体が細すぎて、もう少し豊満な女優のほうが良かったかも、と思っていたのだが、
終盤ではその華奢な体からは想像できないエネルギーを放出し、まさしく「これぞ、女」なのであった。
素晴らしい女優さんである。

クリムト画『ユディト』
クリムト.jpg




蛇足

演劇の舞台は「額縁舞台」が主流なんですが、
『Venus in Fur』はそれに輪をかけて、「額縁化」している。
ほとんど「箱庭」状態。
この考察はまた今度。



サロメ/新国立劇場・中劇場 [演劇]

二ヶ月も放置してしまった。

ロンドン行ってシンベリン見ようかと思っていたんだけど、
やっぱオリンピックで飛行機もホテルも高いので、
イタリアに変更しました。


帰ってきて、さあ芝居でも見んべーと思い、サロメを捜したら、
人気チケットになっていた。

何故?

なんで?

ちょっと期待が高まり、ぴあで14列目があったので、ぽちっとはせずにボックスオフィスに電話してチケット購入。
だって、ぴあで買うと手数料315円もとりやがるんだもん。
劇場の窓口でクレジット決済すれば、手数料無料じゃけん。

で、期待にない胸を膨らませて見たんだけど。
うーん。

フツー。

舞台装置はおもしろかったけど。

最後の血の海は別に。

フツー。


サロメって血塗れのイメージないなー。
13歳だっけ?
15歳だっけ?

ヨカナーンの首がほしいの!!!
ほしいったら、ほしいのっ!!

だって、綺麗なんだもん。


そうなんである。
単に、女の子が綺麗なものを欲しがっているだけなんである。
その心情はすんごく理解できる。
アタシだって一時期とーまの首を飾っておきたかったもの。

それと舞台を覆う血の海は結びつかなかった。

成河くんがVTRでチャラくなっていておったまげた。
坊主のイメージだったもんで。

高音の声は予言者に似合っていたけれど、
サロメが欲しがるような首だろうか。。。と思うと、あまり説得力はない。

そんなとこかな。

サド侯爵夫人/世田谷パブリックシアター [演劇]

万斎さんの『サド侯爵夫人』も観たのであった。

去年の蜷川さんのがあまりにもアレだったので、まさにお口直しした気分。
そーよ、そーなのよー。
こういうサド侯爵夫人が観たかったのだ。

第一幕の前半、サンフォン、シミアーヌ、モントルイユの3人が並んだとき、「女、こえー」と思った。
もう、女三人並んだだけで、いろんな打算や駆け引きが垣間見えて、こえーって。

だから、男性がやってもムダなんだっって。サド侯爵夫人の芝居は。
いくら平さんが名優でも、母性まで出せまい。
母性を超えた女同士の死闘なんて、とうてい演じられまい。

蒼井優ちゃんは、オセローのデズデモナのときも思ったけど、
舞台に出た瞬間の、観衆の目を釘付けにするあのオーラは凄い。
顔立ちはどちらかというと、可愛い系なんだが、登場した瞬間「美女!」と思ってしまう。
なんて、魔力。

そして、万斎さんはルネをどう解釈して、優ちゃんに演じさせるのかと楽しみにしていたら、
これも予想の斜め上を行って、楽しかった。

貞淑に夫に仕えていた無垢の少女は、長い戦いを生き抜いて、
最後には夫を赤いハイヒールで踏みつけにする猛女になりました。
ええ、もちろん外観は可憐な少女のままですが。

2幕目のラストだったか、母親から「打ちますよ!?」と恫喝されて、「ええ、どうぞ」と左頬を差し出したときの優ちゃん。

怖かったです。


総括すれば、面白い芝居は、どんなに台詞が長くても、一瞬も飽きる隙はない。

去年のサド、ヒガシくんの台詞廻しの平坦さに、殺意さえ抱いたもの。
あれが演出なら、完全に失敗でしょ。


シンベリン/さいたま芸術劇場 [演劇]

ネクスト・シアターのハムレットも観たのであった。


シェクスピアの力技ストーリー展開は慣れてるし、流行作家にありがちなキャラと設定の使い廻し(にちょっと後ろめたかったのか、ギリシャ悲劇のゼウスが出て来ちゃったりしてるけど)は慣れてはいるものの、今回はあんまり劇中トリップできなかった。

理由は。。。。。。


なんで大竹しのぶなの?

いやね、技巧で年齢を超越するってのはアリかもしんないけど、
アタシャ人間国宝が踊る娘道成寺にさえ感銘を受けないタイプのバチ当たりなんで、
冷めてしまうんです。
遠目ならまだしも、オペラグラス使うと現実に返る。
それに、大竹さんもう飽きた。。。

他に若手の女優はいないのか?

なにゆえに、蜷川さんは男優の使い方は上手いのに、たまに脳内が腐女子とシンクロしてるんじゃないかっつーくらい、男優さんに素敵な格好やあんなことやこんなことさせるのに、なんで若手の女優さんを使うのは下手なのか。

だから、大竹しのぶなのか。
田中裕子なのか。


戦争に赤子の泣き声とサイレンとか、拍子木とか、和洋折衷とか、最後後ろの扉が開いて世界転換とか、歌舞伎みたいに形式美として成り立たせちゃう方向なのはわかりました。



窪塚くん。
あの独特の台詞回してシェイクスピアの長台詞どうするんだろー? とワクワクしていました。
ちょっと押さえ気味だったけど、いい感じです。
何よりも彼の突如爆発する狂気は、どの役者にも表現できないもの。
好きですねー、役者として。


もう一度くらい観よっかなー。
つーか、ロンドン行って、向こうの観客の反応が観たい。
勝村さんのところ。

















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