しあわせの隠れ場所 [映画]

見たのは3週間ほど前なのだが。
原作を取り寄せていたのであった。

原作を読むと、映画はリー・アンを主人公にしてかなり脚色しているのがわかる。
だからといって、映画の質が落ちているわけではない。
むしろ、映画を娯楽作品に仕上げた、良質な脚本と言えるだろう。
予定調和は安心感をもたらすのだ。


私は、人間は環境によって人格が形成される、と思っていた。
しかし、マイケル・オアーを見ると、どうもそうとも言い切れないようだ。
彼は、アメリカ社会の最下層で、まともな教育も受けられず育ったが、
いつも根拠のない自信を持っていたようだ。
傍目から見れば、どうあがいても這い上がれない環境に身を置いていたのにも拘わらず、
マイケルは、いつか自分が何者かになると確信していたのだ。
だから、彼がショーンの家族と出会ったのは、偶然ではなくて、必然だったのではないかと思う。

映画でマイケルがテューイ家に泊まった翌朝、シーツ類がきれいに畳まれていた、というシーンがあった。
私は映画を見たときは、「飛ぶ鳥後を濁さずな、礼儀をわきまえている少年なんだ」と感心したのだが、原作を読むと、どうもマイケルは生来の潔癖症らしい。
部屋の中が常にキレイに片づけられていないと、落ち着かないタイプ。
たぶんマイケルは、リモコンとかも定位置にまっすぐ並べないと気が済まないタチだと思う。

そうか、そういうのって、環境ではなく、もって生まれたものなんだ。


結局人間は、運をつかむ奴はつかみ、つかんでも自滅する奴は自滅する。
運を開くも閉ざすも自分次第。

マイケルの劇的な人生の成功は、彼の運と類い希な努力で勝ち取ったものだ。
テューイ家が彼に援助したのも、マイケルという存在の影響が周囲に及んだ結果だろう。

ところで、映画ではテューイ家の奥様・リー・アンがクローズアップされているが、旦那様のショーンもなかなかの人物であり、その子供、コリンズとSJもデキた子供たちであった。
特に映画のSJは、子役が可愛らしくてうまかった。

つまりは、人ってたとえどんな環境に生まれ落ちようとも、
自分がしっかりと正道を見失わなければ、かならず道は開ける、ってことだ。

まあ大概は、道が開ける前に精神力が尽きてしまうのだろうけども。


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