小村雪岱とその時代/埼玉県立近代美術館 [アート]

いままでどのくらいの才能ある画家が、歴史のなかに埋もれているのだろう。
私は死ぬまで、どのくらいの画家の才能に巡り会うことができるだろう。

なんとなく点けたテレビの『日曜美術館』の終わりのほうで、紹介されていた小村雪岱。
初めて北斎の『富嶽三十六景』「尾州不二見原」を見たときに受けた衝撃と、同じ物を感じた。
斬新としか表現できない、構図の妙。
すぐに見に行くことを決めた。

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「おせん」の挿絵のひとつ、群衆たちの傘の円、そこに降り注ぐ雨の縦線。
巧妙に計算された、完璧な1枚。
素晴らしい。

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日本人の美意識って、世界一だ。


展覧会は原画のほかにも版画や、長年、雪岱が装幀を手がけた泉鏡花の本が展示されている。
かなり見応えのある点数だ。

美麗な装幀は、当時、日本人の心がいかに豊かだったかを窺わせる。
現代日本の書籍は、どの出版社も自転車操業のため、チープな電子写植を使い、安い紙と安い装幀で大量生産されている。
内容があればまだしも救いはあるが、9割以上が紙とインク代の無駄なのだから、絶望的としか言いようがない。

しかし、雪岱の時代は、1冊1冊の書籍それ自体が、まるで美術品のようだ。
そして中に書かれている文章も、現代の読み捨てられる大量の駄文とは真逆にある、言葉の芸術だ。
「古き良き時代」。
ただ、往時、雪岱が挿絵を描いていた新聞小説よりも、挿絵のほうが人気があったとか、雪岱の装幀画のおかげで本が売れた、という現象もあったそうなので、今日の日本でも「ジャケ買い」という本の買われ方(CDも)があるから、そういう人の心理は同じようである。


雪岱の作品が展示されてある合間に、雪岱自身の言葉も飾られており、それによれば雪岱は「個性のない表情のなかに、微かな情感を表したい」のだそうだ。
それはつまり、「人間の泣き笑いの感情ではなく、仏像や人形の泣き笑い」だという。
だから雪岱の描く美人画は、いずれもほんのわずかな線の行方の違いで、喜怒哀楽が表現されている。
一見すると鈴木春信に似ていて、当時も「昭和の春信」と言われていたらしい。

雪岱は絵の他にも、歌舞伎の舞台美術も手がけていた。
雪岱の絵がそのまま三次元の舞台に表現されている。それを見ながら、蜷川幸雄さんの演出した舞台を思い出した。
なるほど、舞台も、美術としての視点を加えれば、また別の感想が生まれるのだ。
フツーとか評価しちゃってすみません、『リア王』。

いま現在も、どこかで才能のある人が、作品を生みだしているのかな。
芸術家がなかなか飯を食えない時代、願わくば才能が埋もれずに世に出てくるよう。


2月14日まで。
埼玉県立近代美術館。京浜東北線「北浦和」から徒歩3分。
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